観念論と唯物論が激しい火花を散らすバロック

ルネサンスのあとにやってきた時代——バロックは「いびつな真珠」という意味をもつ。

その名のとおり、バロック芸術はいびつなのが特徴だ。過度の装飾やコントラスト。すっきり調和のとれたルネサンスとは大違いである。

17世紀は自家撞着の時代だった。ルネサンス以来の人生に対する肯定感と、信仰のためなら人生を捨てても隠遁せよという思想が併存していた。ゴテゴテした城と質素な修道院がならび建った時代、とでもいえばいいだろうか。

バロックの合い言葉はラテン語で「カルペ・デュエム」(いまを楽しめ)。「メメント・モリ」(死を忘れるな)というラテン語も有名だ。

バロックの底を流れているのは「つかのまの華やかさ」「うつろいやすさ」。美しいものはすべて、いつかは朽ち果てる。

30年戦争によって荒廃するヨーロッパ、フランスの台頭

政治においても対立の時代であった。プロテスタントとカトリックの闘いに政治の権力闘争がからみ、1618〜1648年までヨーロッパでは30年戦争が荒れくるう。

この間、小さな戦闘が繰り返された。ヨーロッパは荒廃していった。そうしたなか、フランスが一大勢力としてのしあがってきたことは見逃してはならない。

フランス貴族やベルサイユ宮殿が象徴するように、為政者ら権力をふりかざし、贅沢三昧の生活を送った。大きな階級格差が生じた時代であった。政治は、暗殺や陰謀や策謀であふれかえっていた。

ヴェルサイユ宮殿(1668年)

バロック時代を象徴する演劇は、人間の生そのもの

演劇がもてはやされた。演劇は芸術というよりバロックそのものだった。人生の象徴だった。17世紀、人びとは「人生は劇場」と繰り返し口にした。この時代に舞台装置や器械(カラクリ)が出そろい、現代の演劇につながる演劇が完成したのだ。

バロックの演劇は、舞台に幻想的なシーンを繰り広げておき、それがただの幻だと暴くのだった。劇場は、人間の栄枯盛衰やみじめさを容赦なく表現した。

シェイクスピアは、ルネサンスでなくバロックに名作を書いた

シェイクスピア(1564〜1616年)は、ルネサンスとバロックの両時代を生きた作家である。偉大な作品を書いたのは1600年前後。彼の作品にも「人生は劇場」という言葉がちりばめられている。

『お気に召すまま』では、

「世界は劇場、女も男もみんな役者、登場しては、退場し、一生、さまざまな役で七幕を演じきる」(お気に召すまま)

『マクベス』では、

「人生はうつろう影絵芝居~意味などありはしない」(マクベス)

シェイクスピアは人生の短さに心をとらわれていた。一番有名なセリフは

「存在するかしないか、それが問題だ」(ハムレット)

われわれはこの世をさまよい、次の日には消えている。

イングランドの劇作家、詩人、ウィリアム・シェイクスピア

バロックの詩人たちは、人生を夢にたとえた。人生を夢になぞらえるモチーフは昔からあって、中国の荘子(紀元前369〜286年)は蝶になった夢を見、目が覚めてから

「わたしは蝶になった夢を見た人間だろうか、それともいま人間になっている夢を見ている蝶なのだろうか」(莊子)

と考えたという。

観念論と唯物論がぶつかりあう、バロックの哲学

哲学も対立する考え方がはげしくぶつかりあった。

多くの哲学者は、存在はつきつめれば精神的な、霊的なものだとみなした。「観念論」(アイデアリズム)である。

この反対の立場が「唯物論」(マテリアリズム)。すべての現象を具体的な、物質的なものに引きおろそうとする哲学だ。

唯物論の第一人者はトマス・ホッブス。すべての現象は人間も含め、物質でできた部品のよせあつめだと考えた。人間の意識、つまり魂も脳内の部品が働いているのだと。

2000年前のデモクリトスと同じ発想であるが、観念論と唯物論はじつは哲学史をつらぬく命題である。バロック時代は、双方の主張がくっきり打ちだされて対立し、これまでなかった緊張関係が生じたというだけの話である。

イングランドの哲学者、トマス・ホッブス

自然科学が唯物論を肯定は、ニュートンはこの世界は巨大な機械とみなした

唯物論は、新しい自然科学によって着々と裏づけが与えられていく。

ニュートンは、運動についての法則は宇宙全体にあてはまるといった。原則的に、自然界のあらゆる変化は数学的な厳密さで予測が可能として、機械論的(メカニカル)な世界観の総仕あげをおこなった。

ニュートンは、世界を大きな機械だと考えていた。

注意すべきなのは、ニュートンやホッブスにとって、機械論的世界観と神への信仰は矛盾しなかったということだ。

一方で、フランスの数学者ラプラスなどは、自然界を形成する物質を最小単位まで知りつくせば、わからないことはなにひとつなくなり、未来も過去も手にとるようにわかるだろう」と考えた。

フランスの数学者、物理学者、天文学者、ピエール=シモン・ラプラス

こうなると、人間には自由な意志など存在しない、ということになる。

こうした考え方を「決定論」という。ドイツの唯物論者らも、脳と思考の関係は、腎臓と尿のようなものだと考えていた。

これはおかしい。思考は物質ではないからだ。脳を開いても、思考のかけらなど見つかりっこない。妄想を手術でとりのぞくこともできない。

ヒマワリ

思考は神経伝達物質のやりとりであり、一種の電気信号。こう考えると、コンピュータは人間の脳に比べるとまだきわめて未熟ですが、いつかは「思考」という行為を人間に近いレベルで実現するかもしれませんネ。

17世紀におけるもっとも重要な哲学者であるデカルトスピノザも、魂と肉体の関係はどうなっているのか、という問いと格闘することになる。

 

つづく

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