哲学が始まったのは、紀元前600年ごろのギリシア。きっかけをつくったのは、叙事詩作家のホメロスやヘシオドスだ。
猿から進化してこのかた、人類のさまざまな疑問や問いに答えてきたのは宗教だった。ホメロスらはこの宗教――当時でいうところの「神話」を書物にまとめあげた。歴史の授業で習う『オデュッセイア』や『イリアス』などがそうだ。
チェック!
学校の授業では、『オデュッセイア』や『イリアス』の中身まで教えてくれない。ああいう授業をする教師が多いことが、ぼくは不思議でならない。学習効率、という面を考えても非効率かつ非合理きわまりないからだ。文中のリンクをクリックすると、各作品の用語解説へ飛べる。そこにあらすじを載せた。簡単なものだけれど、ぜひ目を通してみてほしい。
神話が紙に記されたことで、人びとははじめて、神話を俯瞰して眺めるようになった。一語一句、じっくり吟味するように読んだ。すると、予期せぬ問題が持ちあがった。これまで人類を縛り、自然法則さえも支配してきた「神話」への疑念が芽生え、その不合理性があらわになったのである。
ギリシア神話の通俗性にみんな気がついた
書物になった神話を読んだ、当時の知識人たちが抱いた感想は、
- 神々が自己チューすぎる
- 神なのにあんまり不道徳だろう
- これじゃあ、まるで人間だ
というものだった。
たしかに、ホメロスの『オデュッセイヤ』『イリアス』などに登場する神々は俗物ぞろいだ。まるで人間そっくりだ。神らしからぬふるまいが目についてしょうがない。
- あまりに人間に似過ぎている。神話は、人間の空想の産物ではないのか?
こんな声があちこちで湧いてきたのも無理からぬ話だろう。神話のかたちで、ありがたく口承しているうちは気にならなかったものが、文字に起こしてみると、あまりに俗っぽい。
当代きっての知識人クセノファネスはこういって、神話を批判したという。
「もし動物に絵や文字が書けたら、彼らは自分たちに似た神の姿を描き、彼らと同じような性格を持った神を創造したであろう」
神話の神々の世界は、たんなる人間社会の投影だった、と人びとが気づいた瞬間、それこそが、ぼくら人類が数千年のあいだ語り継いできた神話を捨て、哲学を手に入れた瞬間だったのだ。
photo credit: Temple of Zeus and Oval Plaza at Jerash via photopin (license)
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