チャールズ・ダーウィン【CHARLES ROBERT DARWIN】

ダーウィン

ソクラテス以前の古代の哲学者が神話の説明をしりぞけたように、チャールズ・ダーウィン(1809〜1882年)も、動物や人間の創造に関する教会公認の教えをしりぞけた。

ダーウィンは生物学者であり博物学者だった。しかし近代に入ってから科学者ダーウィンほど、聖書の人間観を強烈にぐらつかせた思想家はいなかった。なにしろ聖書は、人間は被造物のトップにいるとしていたのだから。

ビーグル号での世界一周旅行が、その後の人生を決めた

ダーウィンは少年時代、昆虫採集ばかりしている劣等生だったが、大学在学中に博物学者として評判が高まった。

転機は22歳のときにやってきた。南アメリカ大陸を測量する政府筋の仕事を手伝わないか、と声がかかったのだ。彼は飛びついた。1831年、ビーグル号に乗って、人世を変える航海に出発したのだ。

ビーグル号

まんなかの帆船がビーグル号

2年の予定は、結局5年になり、アメリカどころか世界を一周した。この世界一周旅行のなか、彼は南アメリカを内陸までつぶさに調査した。ガラパゴス諸島にちょくちょく立ち寄ったことが大きな収穫となった。

27歳で故郷に帰ってきたころには、押しも押されぬ博物学者になっていた。彼はビーグル号の航海を、生涯最高のできごとだった、と振りかえっている。この時点で彼は、のちに進化論に結実する、はっきりとしたイメージを抱いていた。

ただし本として発表するのはずっとあとの話。慎重すぎるようだが、科学者としてふさわしい態度だ。

ビーグル号の航海(1831〜1836年) © Image:Voyage of the Beagle.jpg by KipalaSamsara and Dave souza, from a map by User:WEBMASTER, under licence CC-BY-SA. © Sémhur

『種の起源』が出版されるやいなや、英国で大論争が巻き起こる

『種の起源』が出版されたのは1859年。ダーウィン50歳の年。この本は、イギリスに空前絶後の激しい論争を巻き起こすことになる。

1859年の初版『種の起源』の表紙

『種の起源』には2つの主立ったテーマがあった。

  1. いまあるすべての動植物は古い単純なかたちのものから生物学的に進化した。
  2. この進化は「自然選択」の結果である。

生物学的進化という発想は1800年ごろからあった。けれどだれひとりとして、進化がどのようにして起こるのか、納得のいく説明ができなかった。教会の脅威にもならなかった。

当時の常識では、動植物の種は不変で、進化など存在しなかった

当時は教会も多くの科学者も、動植物の種は普遍だという聖書の教えをかたく信じていた。あらゆる動植物はいっぺんに創造された、と思いこんでいた。このキリスト教の見解は、プラトンアリストテレスとも一致していた。

ヒマワリ

プラトンのイデア説では、動植物は永遠のイデアという型にしたがってつくられると考えています。最初から普遍の概念が含まれている。アリストテレスの哲学も、動植物が普遍であることを基本要素としていました。

動植物は一度に創造されたという、従来のキリスト教的世界観がゆらぐ

でもダーウィンの時代、これら伝統的な解釈に疑念をつきつけるような観察や発見が次々とあらわれていた。化石、大型絶滅種の骨の発見、内陸部での海の生物の痕跡などだ。

人間がそこへ捨てたとか、不信心者をまどわすために神がやったのだとか、苦しい説明をする人たちもいたが、多くの地質学者は「天変地異説」を支持した。

地球は大洪水や地震といった大災害に何度も襲われて、そのたびにすべての生き物が絶滅した。聖書にもノアの箱船の話がある。そういう天変地異のあと、神は新しい、より完全な動物や植物をつくって地上の生き物を更新した、というのだ。山上の化石は、箱船に乗せてもらえなかった動物の痕跡だというのだ。

ダーウィンは納得しなかった。そして、イギリスの地質学者チャールズ・ライエルの説を知る。

ライエル「地質学的な変化は、長期間にわたって起こっている、ゆっくりとした継続的な手順からくる。自然のごく小さなたえまない変化は長い時間のうちには劇的な変化につながる。生物学的な種分化、すなわち「進化」の過程においても同じようなことが起こるのではいえるのではなかろうか(ライエル)

ダーウィンは、ライエルの主張を心にしっかりとどめた。動植物の進化にも、同じ説明があてはまると考えたからだ。

ライエルの理論にとって重要なのは、地球の年齢だった。ダーウィンの時代、神はおよそ6000年前に地球をつくった、とみんなが信じこんでいた。アダムとイヴから現代までの年代を足し算するとそうなるからだ。

だがダーウィンは、地球の年齢を3億年(ほんとうは46億年)と見積もった。とほうもなく長い時間を想定しなければ、地球は少しずつ変化するというライエルの説も進化論も成り立たないからである。

ガラパゴス諸島での動物観察が、進化論を支える有力証拠に

こうして、さまざまな地層から出土する化石は、進化論の証拠となった。もうひとつ有力な証拠もあった。探査旅行から持ち帰った、現存種の地理的な分布だ。

たとえばガラパゴス諸島の島々にはほぼ似たような生態系があったが、島によって動植物に固有の特徴が見られたのだ。

ゾウガメや鳥、とくに鳥の観察は衝撃的だった。ガラパゴスのフィンチは島ごとにくちばしのとがり具合がはっきりちがう。ダーウィンは、このちがいがエサの違いと密接に関係していることを実証したのだ。

フィンチ類

㊧ガラパゴス諸島だけに生息するフィンチ類。㊨『ビーグル号航海記』よりダーウィン自筆のイラスト。 ©2006 BB Oros. Please reference with any use. / User : BBODO on english wikipedia – English wikipedia site: Image:060622 Woodpecker Finch composite.jpg / Finch Camarhynchus pallidus

とがったくちばしの地上フィンチは松の実を食べていた。小さなムシクイフィンチは昆虫を食べていた。樹上フィンチは樹上の昆虫を食べていた。どの種類のフィンチもエサをとるのにもっとも適したくちばしをもっていたのだ。

  • これらのフィンチはみんな、たったひとつのフィンチから枝分かれしたのではなかろうか?
  • 種を進化させて、長い歳月のうちにそれぞれの島の環境に適応したのではなかろうか?

当然そういう結論にいたる。

ダーウィンはガラパゴス諸島で「ダーウィン主義者(ダーウィニスト)」になったのだ。進化がどのような起きるかという説明は、この時点ではまだ見つかっていないのだが、もうひとつ地上のすべての動物は親戚だということを示す証拠を発見していた。

脊椎動物の胎児の成長だ。犬やコウモリやウサギや人間の早い段階の胎児はみな、ものすごく似ている。どこがちがうのかなんてほとんどわからないのだ。

当時はラマルク(1744〜1829年)という、フランスの博物学者がとなえた説が支持されていた。動物はよく使う性質を進化させる、というものである。キリンの首は、何世代にもわたって首を伸ばしつづけてきたからで、個々の個体が獲得した性質は次世代に引き継がれる、という。

ラマルクのこの「獲得性質」は遺伝するという説に、ダーウィンは納得しなかった。ラマルクもまた、自説を論証することはできなかった。

ダーウィンはもっと明快な説明を求めていた。そうやってたどりついたのが、どの個体が生き残るかという選択を自然がおこなっている、という考え方であった。

進化は、環境にもっとも適応したものが生き残り、種を存続させるという、生存競争の自然選択が起こしているのだ。自然選択説、それが『種の起源』であきらかにした第2の理論だった。


自然選択説を発表、『種の起源』を出版したころのダーウィン。50歳前後。

自然選択と進化は、繁殖力の強さ、生存競争の激しさに左右される

自然選択による進化が起きる際にモノをいうのは、生き物の繁殖力の高さだ。

たとえばゾウの繁殖スピードはあらゆる動物のなかでもっとも遅い。彼らは30歳で繁殖を始め、90歳代で終える。この間に6頭の子を産み100歳まで生きる。もしすべての子象が生きのびたとすると、750年後にはひとつがいのゾウから1900万頭が生まれることになる。

ダーウィンはさらにいう。

生存競争はもっとも近い種のあいだでもっとも激しい。同じエサをめぐって争うからだ。するとごく小さなちがい、ふつうよりもちょっとすぐれていることが決定的になる。

生存競争が激しいほど新しい種への進化は速い。結局、個体のたったひとつの課題は、性的に成熟して繁殖し、種族を保存することなのだ。

人間にも進化論はあてはまる。

赤道地帯の人びとの肌の色が濃いのは、黒い肌のほうが太陽の光からガードしてくれるからだ。白い肌の人びとが太陽の光を浴びすぎると、皮膚ガンにかかりやすい。反対に白い肌は、太陽光をよく吸収して体内でビタミンがつくられるのを助ける。あまり陽が差さないところでは重要なのだ。ともかく自然界に偶然はひとつもない。

進化論とはなんだったのか

おさらいすると、同一の種にちょくちょく現われる個体の差異と、少数のものしか生き残れないほどの高い出生率が、地球上の生命の進化の素地だ。生存競争のなかでの自然選択がこの進化のしくみの、陰の原動力である。

『種の起源』は、すさまじい論争を引き起こした。教会は容赦のない批判をぶつけてきた。学会もまっぷたつに割れた。人間が神の創造にいいがかりをつけたのである。当然だった。

なかには、そういう進化の可能性も組みこんで、神が生き物を創造したと考えれば、より神をたたえることになるのではないか、という思慮深い人びともいた。しかし少数派だった。アダムとイヴは、おとぎ話の住人になったのだ。

ダーウィンは1871年に『人間の由来』という本を出した。そのなかで、人間と類人猿は同じ祖先から分かれて進化したにちがいない、と論じた。そのころ、ネアンデルタール人の化石も発見された。しかし世論はダーウィンの発見に背を向けた。

  • 「そんなことは事実ではないと思いたい。でも万が一真実なら、一般に知られないことを望む」
  • 「まったく滅入るような発見だ。これについては黙っているのがいちばんだ」

こんな声が聞かれた。

イギリスの評論家、社会思想家ジョン・ラスキンはこういって嘆いた。

ラスキン「地質学者たちがわたしをほうっておいてくれればいいのに。聖書の行の終わりごとに、彼らのハンマーの音がガンガン響く」(ラスキン)

ダーウィンは、人間を下劣な生存競争の結果にしてしまったのだ。しかし当初は危険人物と目されていたダーウィンも、最後には科学の先駆者として尊敬されるようになった。

なお、繁殖による差異がどうやって起こるか、ダーウィンにもわからなかった。ネオ・ダーウィニズム(新ダーウィン主義)がのちに解明し、ダーウィンの理論を完成させた。生命と繁殖の基礎は細胞分裂で、細胞分裂はひとつの細胞が自分をコピーすることなのだが、この際ときどきまちがいが起きる、という理論だ。

これを「突然変異」という。突然変異はまったくなんの意味もないのかもしれないし、個体にはっきりとした変化をもたらすかもしれない。

突然変異が引き起こす病気も多い。けれど、ある個体に生存競争を勝ち抜く有利な性質を与えることもある。キリンの首が長いことなどだ。つまり「順応」である。なお、ダーウィニズムによると、獲得された性質は遺伝しない。

人間が自然法則に影響をおよぼすこともある。畑の害虫が殺虫剤でどんどん強くなったり、抗生物質がバクテリアを強くして、手に負えないくらい強くなったものを誕生させたりする。

近代医学は、昔なら病気で命を落としていたであろう子どもたちを高確率で生かす。このことも自然選択にある程度、ストップをかけている。こんなことをつづけていたら、長い目で見たときに、人類全体の抵抗力が弱くなってしまうのだ。深刻な病気に打ち勝つ遺伝的な条件が低下してしまうといえる。

こうしたことも、人類はしっかりと目を開いて見るべきだ。どんな結論を出すかは別の問題だ。

 

つづく

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です