エピクロス学派(起源前300年ごろ~)は、アテナイのとある庭園「エピクロスの園」(上写真)を根城にしていたことにちなみ、「庭園の哲学者たち」と呼ばれている。
彼らの庭園の門にはこんな銘文が掲げられていたそうだ。
でも、誤解は禁物だ。エピクロス派のいう快楽は、食っちゃ寝しては女性とまぐわい、賭け事や趣味に興じる、といった俗っぽいものではない。ストア派のディオゲネスのように他人を見くだして、路上生活を送ることでもない。
こんなふうに考えていた。
もくじ
ソクラテス、アリスティッポスの系譜を経て、エピクロスが創始
ソクラテスは、「どうすれば人間は幸せになれるか」ということを追求し、「正しく生きること」を説いた。
キュニコス学派やストア学派は哲学者たちは、ソクラテスの説を「ひとは物質的な欲求やぜいたくからの開放をめざすべき」と解釈。でも、ソクラテスの弟子アリスティッポス(前435~前355年ごろ)は、いちばんの善は快楽で、いちばんの悪は苦痛、と解釈したのだった。
むろんこっちも欲望のままに生きてよし、とするものではない。快楽や欲望を享受するのはいい。けれど、これに支配されてはならん、制御しろ、といっているのである。
アリスティッポスの創設したキュレネ学派(彼らは北アフリカのキュレネという街にいた)は、この快楽主義をベースにした実践的な哲学をとなえた。
これを継承する恰好で、エピクロス学派は産声をあげたのだ。
デモクリトスの原子論を用いて、人心を癒やした
エピクロス学派の創設者は、エピクロス(前341~前270年)だ。
アテナイに開かれたこの学園は、キュレネ学派の快楽主義の倫理に、デモクリトスの原子論を持ちこんだ。
彼らはこんなふうに説いたという。
意味不明である。
敷衍(ふえん)すると、ようするにこれは、
なんてことをいいたかったらしい。
というのも、エピクロスの園にやってくるひとは、宗教上の不安を抱えているケースが少なくなかったから。とくにヘレニズム時代はシンクレティズム(宗教の混交)が巻き起こったから、みんな宗教観がぐらついていたし、宗教はカルト色を帯びつつあった。
そういう宗教の迷走や迷信――死の恐怖や没後の懲罰をあおって人心を惑わす連中に対抗すべく、エピクロスの原子論を駆使した、というのが実情なのだとぼくは思う。
というデモクリトスの主張を、ひとびとに死の恐怖に打ち勝たせるために使ったわけだ。
宗教の迷走、暴走を抑えこむのは哲学!
当時の大衆がありがたく拝聴していた、エピクロスのありがたい講釈をひとつ。
「死を恐れる必要はない。われわれが存在しているあいだ、死は存在していない。死が存在するやいなや、われわれもう存在しないのだから」
死への恐怖や死後への不安の解消のためのこういう哲学を、エピクロスは「四種の薬」といっていたという。
- 神々を恐れることなんてない。
- 死を思いわずらうことなんてない。
- 善は簡単に手に入る。
- 恐怖は簡単に耐えられる。
宗教と市場原理主義の対立が苛烈さを増す現代。海外ではいまだテロがつづく。楽天的で無鉄砲なぼくでさえここ数年は渡航をひかえている。
不穏なニュースを聞くたび、早くなんとかなってほしいなあ、なんて思うのだけれども、もしかしてだけど哲学ならなんとかできるんじゃないの、とかこの記事を書きながらちょっと思った次第。中世のキリスト教の暴走を食いとめる役割を果たしたのもルネッサンスの哲学だった。
おわり
エピクロス派の哲学者たちはこういった。
苦痛からは逃げるが勝ち! というわけである。
事実、彼ら自身もエピクロスの園にひきこもり、政治や社会にはほとんど興味を示さなかったという。多くの政治家が輩出したストア派とは対照的だ。
なお、エピクロスが死んだあと、エピクロス学派の人々(エピキュリアンと呼ばれた)は、一面的な快楽に走ってしまう。モットーは、
いまが楽しければなんでもいい。楽しくなければ人生じゃない。20代のころのぼくとまったく同じ発想。
おかげで、「エピキュリアン」という言葉はいま、快楽至上主義者という意味で用いられている。天国のエピクロスはさぞかし無念にちがいない。
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