イエス・キリスト【JESUS CHRIST】

イエス・キリスト

メシアをきどる人々は口々に救世主伝説のキーワードである「神の御子」「神の国」「メシア」「救い」といったことばを口にした。そうして、いにしえの預言と自分とを結びつけた。

イエスもそうだった。エルサレムにロバで乗り入れ、民の救い主として大衆の歓呼を浴びた。そうやって、同じように「即位儀礼」で王位についた、いにしえの王たちに自分をなぞらえたのだった。香油をそそがせてもいる。

イエスはいった。

「時は満ちた」

 

「神の国は近づいた」

と。

ここまではほかの似非メシアと変わりないのだが、イエスにはほかと決定的に異なる点があった。軍事や政治の指導者になり、権力を手中におさめようとはしなかった点だ。イエスはすべての人々に対する、神の救いと赦しを告げた。巷間をまわり、

「神の御名において、あなたの罪は赦された」

そう告げたのだった。

人々にとって、これは衝撃的だった。

彼らは武力で神の国を再興してくれるメシアを待ち望んでいた。ところが、イエスというメシアは、将軍とはほど遠い姿――長い服とサンダル履きであらわれ、まるで別の次元から民衆に救いをもたらそうとしたからだ。

ヒマワリ

「メシア」はギリシア語で「キリスト」です。

神の国とは隣人への愛だと説いた。弱者への思いやりだと説いた。過ちを犯したすべての人を赦すことだと説いたのだった。

「あなた自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」

それどころか、敵も愛さなければならない、といった。敵がわたしたちの頬を殴ったら、もう片方の頬も差し出せ、と。わたしたちは赦さなければならない。7回ではなく、7の70倍も赦さなければならない、と。

いにしえのキナ臭い預言に、イエスはドラマティックな新解釈を与えたのだった。

イエスは、平和、愛、ほどこし、赦しを説き、民衆から支持を獲得、既得権者の不興を買い、処刑された

イエスによれば、全財産を遊興のために使い果たした浮浪者も、税金を着服した悪徳収税吏も、神に許しを乞いさえすれば、神の前で義の人と呼ばれる、それくらい神の慈悲は大きい。

さらには、神の前で悔いあらためた罪人は、誰よりも神の掟を守っていると鼻高々の、非の打ちどころのないパリサイびと(モーセの律法の厳格な遵守を主張するユダヤ教一派)よりも義なのだ、だから神の赦しにあずかれる、といったのだ。

その根底には、人はどんなに努力しても神の慈悲に値する人間にはなれず、自力で自分を救うことなどできない、という考えがある(ギリシア人もそう考えていた)。

シナイ山での「律法授与」にならい、山上で群衆を前にしてイエスが弟子らになしたという説教(山上の垂訓)で厳しい道徳を説いたのは、神の意志を伝えるためだけではなかった。神の御前では正義の人などいない、人間が神に立ち帰るには赦しを乞う祈りによるしかない、と伝えたかったのだ。

なお、山上の垂訓は、祝福の言葉に始まり、敵を愛すること、報い、裁きについての言葉、黄金律などを含む。黄金律とは、キリスト教の根本倫理で、「なにごとでも人びとからしてもらいたいことは、すべてそのとおり人びとにもしてあげなさい」(マタイによる福音書、ルカによる福音書)。

イエスが磔刑に処されたことは、当時の時代背景を思えば、なんの不思議もない。パリサイ派を偽善者としてはげしく攻撃していたし、学者たちからも反発の声があがったのは自明。ラディカルすぎる救いの教えは、あちこちの利権や権力者たちを脅かしたからだ。邪魔者以外の何者でもなかったのだ。

キリストの埋葬準備の光景『ゴルゴタの丘の夕べ』(ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン)1869年

ソクラテスの死は人間の理性にうったえることの危険性を体現した。イエスの死は、際限ない隣人愛や赦しを要求することの危険性を教えてくれている。現代においても、平和や愛や貧しい人へのほどこし、政敵への赦しといった要求に応えられる国家など存在しないのだ。

イエスは人類でただひとり、正しい人間だと、キリスト教はいう。イエスは人類のために死んだ、身代わりになって苦しんだ、とされる。われわれを神にとりなし、神の罰から救うために、すべての人間の罪を背負った「受難の僕」だった、と。

神の御子、イエス・キリストの復活は、命の永遠性を示す

『主の復活』(カーリエ博物館蔵)。キリストがアダムとイヴの手をとり、地獄から引き上げる情景。

イエスが十字架にかけられ、葬られて数日後、イエスはよみがえった、という噂が立った。

これによって、イエスはただの人間でないことを証明した、本当に神の御子であることを証明した、とされた。キリスト教の教会は、この復活の朝に立ちあがったといっていい。イエスの復活によって、全人類は肉体のよみがえりに望みをつなげることになる。

ここで注目なのは、ユダヤの地(セムの世界)では、魂の不死や輪廻といった発想がなかったということ。

魂の輪廻というのは、ギリシアの、つまりインド-ヨーロッパの考え方なのだ。キリスト教にも、不死の魂というような発想はないけれど、神の奇跡としての肉体のよみがえり、永遠の命を教会は信じている。

そこには、ひょっとするとヘレニズム文化の影響があったのかもしれない。

 

つづく

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