中世、キリスト教がギリシア哲学を圧倒

中世のイメージ

313年コンスタンティヌス帝時代、ローマ帝国はキリスト教を宗教としておおやけに認めた。帝自身も臨終の床で洗礼を受けることになる。

そして381年、キリスト教は全ローマ帝国の国教となった。

じつはこのとき、ローマはすでに崩壊しかかっていた。北の他民族の襲撃と内部崩壊という両面からおびやかされていたのだ。だから、330年にはコンスタンティヌス帝(写真の彫刻)は、首都をコンスタンティノープルへ移した。

コンスタンティノープルは、黒海入り口に建設した都市で、ここが第2のローマとなる。けれども結局、395年にローマ帝国は分裂してしまう。ローマを都とする西ローマ帝国と、コンスタンティノープル中心の東ローマ帝国が並び立つのだ。

さらに410年には蛮族に蹂躙され、476年、西ローマ帝国はついに滅びる。

なお、東ローマ帝国は1453年、トルコにコンスタンティノープルを征服されるまでつづく。その時より、コンスタンティノープルはイスタンブールと呼ばれるようになる。

現イスタンブール(コンスタンティノープル)

中世とは、紀元400年から1400年の1000年間

この400年ごろから1400年ごろを「中世」という。

もともとは「2つの時代のはざまにある時代」という意味で、ルネサンスの人びとは、中世を「古代とルネサンスのあいだの、闇に包まれていた千年の夜」というふうにイメージしていた。

現代人も「権力をかさに着た、融通の利かないもの」を中世的と表現したりする。

でも、中世を千年の成長と見る人も多い。事実、学校制度などは中世にできあがったし、1200年ごろには最初の大学が開かれた。こんにちでも大学は、学科や学部を中世と同じように組み立てている。

中世の1000年間で民衆のキリスト教化が進み、単一の世界観を形成

1000年という歳月が、キリスト教が民衆に根づくのに果たした役割も大きい。中世文化はキリスト教単一文化といわれるが、実際にキリスト教は中世にただひとつの支配的な世界観になった。

さらに、この間に町や砦、民衆音楽や民話をそなえたいくつもの国が育っていった。

中世がなければ、メルヘンや民謡はいま存在していない。ロミオもジュリエットも、白雪姫も修道士や十字軍の戦士たちも存在しなかったのだ。

ただし400年からの最初の100年間、文化はおとろえたらしい。

ローマ時代に整備された、公共の下水道や公共浴場、公共図書館など、堂々たる建造物をそなえた大都市の「高度文化」のすべてが台なしになってしまった。経済もだ。物納や物々交換に逆戻りしたのだ。

封建制度が台頭してきたことが原因だ。封建制度は、少数の大地主が土地を所有し、農奴はそこで働き、かつかつの暮らしを立てるというしくみ。その結果、最初の数百年で人口もがくんと減った。

古代には百万都市だったローマは、7世紀には4万人台にまで落ちこんだという。何十分の一である。ローマの威厳も地に落ちたのだ。

その一方で、ローマの司教が全ローマカトリック教会の長になったことにより、ローマ司教は「教皇」とか「父」とか呼ばれ、現世でのイエスの代理人として、絶大な権力を手にするようになる。

ローマは中世を通じて、教会の首都になるのである。

529年、ついにキリスト教がギリシア哲学を終わらせ、思想の決定権を握る

覚えておかなければならないのは、529年。この年、ローマ教皇はプラトンのアカデメイアを閉鎖するのだ。

プラトン時代のアカデメイア

同年、ベネディクト会ができる。ベネディクト会は、大きな修道会としては人類初のもの。つまり529年は、キリスト教会がギリシア哲学に幕を引いた、象徴的な年なのである。

以降は、学問の伝授や思索や瞑想を修道院が一手に引き受けるようになっていく。

 

つづく

 

コンスタンティヌス帝彫刻/Jean-Pol GRANDMONT An email to Jean-Pol GRANDMONT would be appreciated.

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