60年代に世界を席巻したリバプールサウンドっていったい何だったのか?

ビートルズ

1965年にアメリカのヒットチャートを制圧、そのサウンドは長髪スタイルとともに怒涛の勢いで世界に広まっていった。

シンプルな演奏、強烈なシャウト。イギリスからやってきたロックバンド勢の音楽は、甘くてぬるいポップスに飽きていた当日の若者すべてをシビレさせた。

第2のビートルズを夢見て、リバプールサウンドを謳うグループが続々登場

リバプールサウンドという名称は、ビートルズの出身地にちなんで名づけられた。

しかし出身がロンドンだろうがマンチェスターだろうが、日本ではイギリスの新人グループに「リバプールサウンドの新星!」なんていうキャッチコピーを使用していた。

実際、そのころ人気のあったグループにリバプール出身者は少なく、やはりロンドン出身者が多かったのは事実。そんなわけで、ビートルズもロンドンに出てきた当初はかなり田舎者あつかいされていたという。

でも彼らの人気が爆発。「ビートルマニア」という言葉が使われだしたころには、彼らを田舎者と呼ぶ連中はいなくなる。イギリス中のグループが第2のビートルズをめざして次々とメジャーデビュー。ビートルズがアメリカに進出した1965年ころからは、毎月のように新人グループがデビューした。

ビートルズ、待望の全米進出が1964年にようやく叶う

イギリスでの人気を不動のものとし、ファーストアルバム、セカンドアルバムともにチャートの1位を何十週にもわたって独占。ところが、アメリカではヒット曲がひとつも出ない。大手レコード会社の拒絶に遭っていたのだ。

それでも『ライフ』『ニューズウィーク』といった雑誌が、イギリスで社会現象と化しているビートルズを記事にしはじめ、ラジオDJが彼らの曲を電波に乗せだすと、アメリカでの彼らの知名度もじわじわ広まっていく。ついにレコード会社も無視できなくなり、満を持して全米リリースされた「抱きしめたい」はシングルチャートで1位を獲得した。

ヒマワリ

1964年の1月に「抱きしめたい」で全米デビュー。2月に初渡米、2月9日には『エド・サリヴァン・ショー』に出演。⬆はそのときの映像です。ポールによれば、視聴者数は7300万人だったとか。

デイヴ・クラーク・ファイヴは、若々しい演奏とハーモニーでスターダムへ

ビートルズの成功につづけとばかりに数多くのグループがデビューするなか、最初にビートルズと五分の人気を誇ったのが、デイヴ・クラーク・ファイヴだ。

彼らの音楽はとにかく単純明快。初期のビートルズの楽曲よりさらにシンプルかつメロディアスだ。

1963年のデビュー曲「グラッド・オール・オーバー」で、ビートルズの「抱きしめたい」をチャートの首位からひきずりおろすと、一気にスターダムへ。1964年には早ばやとアメリカ進出を果たし、本国イギリスを超える人気を博した。その翌年、「オーバー・アンド・オーバー」で全米ナンバーワンに輝いている。

正真正銘のリバプールサウンドで人気爆発! ゲーリーとペースメーカーズ

ゲーリーとペースメーカーズはピアノを含む4人組編成。ボーカル、ゲーリーの美しい歌声は、女性ファンのハートをたちまちにして射抜いた。さらに彼らはリバプール出身。正真正銘のそのリバプールサウンドは、ビートルズにつぐ人気を獲得していく。

彼らを売りだしたのは、ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインだった。初期の楽曲には「マージー河のフェリーボート」(1965年)など、レノン&マッカートニーに匹敵するくらいすばらしい曲もあったが、長続きはしなかった。

そのほかのリバプールサウンドの担い手たち

サーチャーズ

サーチャーズもリバプール出身だが、音楽的には異色といっていい。彼らにはオリジナル曲がなく、カバー専門のグループだった。

それでも独特のコーラスワークはとても美しく、世界中で人気を博していた。

ピーター&ゴードン

リバプールサウンドが世界中で話題となっていた1965年、その第1弾として来日したのがピーター&ゴードンだ。

当時、ポール・マッカートニーはピーターの妹とつきあっており、その縁で「愛なき世界」という曲をピーターに提供している。これが大ヒット。

ハーマンズ・ハーミッツ

ハーマンズ・ハーミッツはティーンエイジャーのグループで、演奏はヘタクソだったものの、日本でも人気があった。

彼らの曲はアメリカのプロたちが手掛けており、ヒット曲がいずれも上質のポップスだったからだろう。

ビートルズとの力量差が明白となり、リバプールサウンドは終焉

グループによってそれぞれ個性はあるものの、いま聴くとそのほとんどがアップテンポなポップミュージック。初々しい演奏とハーモニーが魅力的である。

ただしこの手のポップグループの人気は1966年ごろがピーク。その後はことごとく忘れさられていく。

残念ながらこれは、ビートルズのように新鮮でオリジナリティ豊かな楽曲を次々と生みだせるグループがなかったからだろう。せっかくデビューしても、オリジナル曲で勝負できるのは最初だけ。才能はすぐ枯渇してしまい、プロの作曲家やスタジオミュージシャンに依頼するグループも少なくなかった。

それとは正反対にビートルズは、『ラバーソウル』や『リボルバー』などの革命的なレコードを次々に発表する。その差は歴然だった。ただポップなだけのリバプールサウンドは結局、その言葉のルーツとなったビートルズが淘汰することになった。そうしてリバプールサウンドという言葉自体が使われることもなくなったのだ。

リバプールサウンド亡き後、イギリスのロックはどうなったか?

リバプールサウンドとかマージービートと呼ばれていたイギリスのポップ・ミュージックは終わった。

その一方で新しい音楽を手探りするミュージャンたちは、当時すでにアメリカで産声をあげつつあったサイケデリックミュージックの影響なども受けながら、次世代の音楽をつくりだそうとたがいに切磋琢磨していた。

ブリティッシュロックの夜明けはもう間近に迫っていた。

ヒマワリ

ロンドンのクラブシーンでは当時、ブルースやR&Bも盛りあがりをみせていました。サイケからはプログレやグラムといったロックが生まれ、ここからはロンドン独自のブルースやR&Bをベースにしたロックが芽吹きます。その代表格はストーンズ。今度はその話をしますネ。
ストーンズのウォールアート ブリティッシュロックの萌芽、発展、成熟、そしてローリング・ストーンズ

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